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あらきと学ぶ楚漢戦争 ~「事前知識としての大帝国」~ 法家と秦帝国の成立

ずいぶん久しぶりの更新と相成りました。待たせたな!

 

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 ……それでは、記事の本題へと入っていきますか。

思想はどうしたんだよ

タイトルの通り、法家の思想はあまり扱いません。法家の思想は韓非が書物として記したものがきわめて優秀で、統治理論として「法家」は後の中華世界に継承されていきます。というか、法家の思想はやはり実際の統一にどういう風に反映されたかを見る方がいいというか、分かりやすい気がするんですよね。

 

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法家の思想家

実は、法家の政策を実行した人間としては商鞅が既に紹介されています。彼は改革者であり、仕官を求めて諸国を往く官僚でもありましたね。

今回、統一を支える思想家であり卓越した政治手腕を見せるのは、李斯という男です。では、李斯について詳しく見ていきましょうか。

李斯

李斯の師匠は以外にも儒者として扱われる人間です。荀子と呼ばれる、孟子とは正反対の考えを説いた思想家です。

孟子は「徳治政治」による支配を理想化し、その理由を人が生まれつき善性を持っているということに求めました。また、王道政治(武力を用いずに人々を教化させて従えようとする政治)を是として、覇道政治(武力による支配)を認めませんでした。

 

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 一方で荀子は「人の性は悪にして、その善なるものは偽(人為的なもの)なり」と考え、礼を学ぶことで後天的に人は善悪を学ぶと考えました。マナー講師みが強いですね。西洋哲学と違って実利を思想にめちゃくちゃ求めているところがあるような気がしますが……ま、どうでもいい話ですね。そもそも西洋哲学も実利は求めてますし。

 

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さて、そういった思想を荀子の元で学んだ韓非や李斯は考えました。「それ、足りなくね?」と。所詮人とは利害で動く獣のようなものであり、人間を動かす原理は徹底された「利害を与える国家構造である」ことを確信します。

利害を与える国家構造とはつまり、法治主義に他なりません。かつて商鞅が唱えた信賞必罰の構造の徹底化。国家に功あるあるものは栄誉に預かり賞を頂戴し、国家に害を無し秩序を乱す者は罰する。そういった思想を貫徹することで、統一がなされるべきだと考えたのです、多分。ここら辺は若干妄想混じりです。

さて、李斯は出世欲の為に帝王の術を荀子から学び取り、統一に最も近い秦で富貴を極めようと考えて秦にて仕えました。

李斯は同門でより優秀な韓非を自殺に追いやり、要職に就き秦の統一を助けます。数々の政策や侵略の結果帝国は成立し、秦王政は中華大陸初の皇帝、始皇帝として君臨することとなりました。漫画『キングダム』では始皇帝も重要な人物として登場しますね。

 

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 ちなみに主人公は史実における李信だとか。

帝国の政策

まず、秦は分かれていた国家を統一しなければならないのですから政治だけでなく多くのことを統一する必要が出てきます。

その一つが「文字」です。文字は当時漢字、といってもかなり古い時代なので今とは全然違いました。そこで李斯が「小篆」に統一をします。ハンコでたまに使われますね。有能。

 

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 今でも勉強はできますし、ちゃんと学んだ書家さんならかけるかも?

 

他には思想の統一も必要です。儒家は口うるさいマナー講師、おまけに易姓革命なんて厄介なことを抜かす連中です。その上始皇帝に不老長寿の薬と称して偽薬を飲ませるなども判明、穴埋めにされました(坑儒)。

さらには農学といった実用書や法家以外の所説を禁止、本を焼きました(焚書)。

実用的な面での統一政策は貨幣や単位(長さ、量(容積)、重さ)の統一でしょうか。かなり便利でその後の中国の一体化を促した面もあると思います。有能。あとは車軸の長さです。これはピンとこないかも知れませんが、馬車などの荷車が土でできた道を通ると、轍(わだち)ができてどんどん深くなります。これが全然違うと荷物は運びづらいです。

こういった諸国の一体化を行いつつ、秦帝国は成立していきます。

かなり端折りましたが、秦が統一を進めたこと、法家が統一理論を担当したこと、儒者を埋めたことが今回の鍵になります。将軍がどう攻めたとかは楚漢戦争にあまり影響しないので飛ばします。またの機会に書くかも。

次回からは楚漢戦争についての記事を始めていきますね。ここまで長かった……。

 

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あらきと学ぶ楚漢戦争 ~「事前知識としての思想」~ 儒家

思想家が目指したものは?

以前お話したとは思いますが、思想家は「新たなる秩序」、人の世を治める術を探しました。戦国乱世の中には息子を料理して君主に食べさせるやべーやつや、出世の為に妻を殺す将軍など、とにかくろくでもない奴ばかりでした。父親が死んだあとその愛人に手を出した息子なんかもいます。光源氏かな?

いいね!光源氏くん (FEEL COMICS swing)

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 このように、乱世は人倫もめちゃくちゃで、やはり社会の決まり事、道徳的な観念を新たに打ち立てることを試す人も増えていきます。しかしどちらかというと、「特定の思想体系を打ち立てて取り入られること」に重きを置いている点もやはり否めません。秩序を完成させるために取り入るのか、取り入るために魅力的な秩序を完成させるのか。

そんな中、楚漢戦争にも関係するのが「儒家と法家」の思想です。

というわけで、先に生まれたとされる儒家の思想から追って行きましょう。

 

始まりは「マイナーマナー講師」

孔子だけに。なんつって。――さて、孔子も今ではかなり有名ですが、元々彼が生きた春秋の時代での彼の評価はきわめて低い者でした。正しく言うと「めんどくせぇやつ」でした。

言っていることは当時の人々ももちろん理解していました。儒学の基本的な考え方は「親を大事に、人々を労わる、立派な聖人が政治をすれば世の中よくなるよね♪」です。乱世を生きる諸侯は「思想には時代のニーズがあるだろ」と思っていたかもしれません。だれも孔子の言う「時代錯誤の正論」には耳を傾けませんでした。

騒がしいマナー講師でも、政治を任せれば有能

ところが、孔子の弟子には多く成功した官僚がいます。中でも子路と子貢は卓越した能力を持った官僚で、子路は一国の政治を任されて極めて高い結果を残したとされています。実際、師の孔子も「彼は君子の域に近づいている」と言うほどの賢人でした。

日本の作家である中島敦も『弟子』で子路のことを書いています。

 

弟子

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 一方の子貢は口先三寸の男で、弁舌を以て天下の采配を大きく変えました。彼のような弁舌さわやかな人間の影響力が古代中国史では結果に大きく作用しました。子貢は呉越の争いに大きく関与し、暴虐で愚昧な呉王夫差を破滅まで追い込みました。

 

思想としての「儒家

官僚として職を求める一段としての儒家は「結構有名(口うるさいから有能でも嫌って君主は多かったようですが)」でした。しかし、思想家としては今でこそ最も有名ですが当時は「数ある中の一つ」にすぎませんでした。その儒家がいかにして力を持つかは楚漢戦争の結末なんかと大きくかかわっていきます。

それはさておき、儒家の思想を当時一定の体系まで成立させたのはやはり何と言っても孟子でしょう。もともと単なるマナー講師に過ぎなかった思想は孟子によってダイナミックな政治原理へと変化したといえます。

そのダイナミックさは何と言っても「君主を引きずり下ろすことを是認する易姓革命の考え方に在りました。

易姓革命は、赤字の通り「君主が無能(徳を持たない)な暴君なら武力を以て追い出すことも許される」としました。

これが結構厄介な思想なので、やっぱり儒学は戦国の世にはうけませんでした。次回は戦国の世を制した法家の思想を見ていきましょう。

今回は短くてすみません。

 

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あらきと学ぶ楚漢戦争~「事前知識としての戦国時代」~ 戦国の七雄 秦

戦国を生き抜くためには

前回、魏の「中央集権化」についての記事

https://araki-buriburi.hateblo.jp/entry/2020/06/24/041334

をまとめました。西門豹や呉起という官僚による政治体制の大規模な変革が魏を強国へとしたということが分かったと思います。実際、戦国時代には多くの国の興亡があり、最終的には一つの国になるもののそれぞれの国が「手を出すと火傷じゃすまない」と恐れられる時期がありました。それが戦国における「名君」の治世です。

そして、名君というものが何をしたか。人材を厚遇したことが最も重要でした。国が栄えたのは「有能な人間を招いたから」、国が衰えたのは「有能な人間を追い出したから」「有能な人間の言葉に耳を貸さなかったから」でした。

 

 

つまり、戦国時代とはスカウト合戦でもあり、いかに政治的・軍事的に優れた人物を招き入れるかが大切でした。

それを代表する故事で有名なものを紹介しましょう。

先づ隗より始めよ

これは戦国の七雄、燕の故事です。当時、燕では先代の国王噲とその臣下子之が国政を混乱させて国家は大変疲弊していました。ちなみに内乱を煽り国を疲弊させたのは隣国の斉です。

王のいない二年の時を経て太子平は即位します。これが燕の昭王です。昭王は滅びかけた国を再建するため、賢者を招こうと考えました。

そこで昭王は臣下である郭隗に尋ねます。

「この国を立て直し、斉に報復をしてやりたいが力がない。先生の慧眼をもってして、国の再建に相応しい賢者を見つけてはくれないか」

それに郭隗はこう答えました。

王が賢人を招きたいのなら、まずこの隗からお始め下さい。私のようなものを優遇しているとわかれば、それに勝る賢者たちもっと厚遇されるはずだと考えきっとこの国に集まってくるでしょう」(原文 王必欲致士、先從隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。)

なんかうまいこと自らの待遇を上げましたね。しかしこの賢人あつめのプロモーションは効果抜群で、三国時代諸葛亮が手本として尊敬した知略至誠の名将楽毅も馳せ参じ、燕は再建に成功しました。

 

楽毅(一) (新潮文庫)

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楽毅(二)(新潮文庫)

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楽毅(三) (新潮文庫)

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楽毅(四) (新潮文庫)

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では、秦の国を強国にしたのは一体誰だったのでしょうか。見ていきましょう。

中原から離れた「蛮族国家」

秦は、中原(黄河下流域に広がる平野で、当時は文化や文明の中心でした)から離れた国で、楚や越と同様に「野蛮人」の国と蔑まれていました。

楚や呉、越という江南の諸国は春秋時代から「王」を称するなど、周を中心とした封建制度からやや離れた立場をとっていました。

秦は王こそ名乗らなかったものの、やはり中原から見れば「僻地」の国として、あまり評価は高くありませんでした。文化や文明が「遅れている」とみなされた訳です。

これは春秋の頃は「覇者」として名を馳せた晋(趙、魏、韓はもともと一つの国で、晋といいました)の系譜を引き継ぐ魏とは大きく異なる点で、より一層新興国としての側面が強い改革が秦のポイントでしょう。

実際、中原の諸国とは異なる政治原理に基づいて改革は始まります。

秦の改革 「法治主義」による中央集権

秦の孝公が登用した商鞅は、孝公が求めることが「速やかな中央集権」であることを見抜き、「強国策」を進めていきます。その際、旧来の風習を守るべきであるという政敵たちを舌先三寸で論破しています。

当時の中国は「通時的(世代を超えて共通しているこ)」な価値観が支配的でした。古来の礼を守り、伝統を受け継ぐことこそが良いものとされたのです。儒教はその典型で、親や老人を敬う精神性は通時的価値観です。古ければ偉いんですから。

しかし、商鞅は「政治は変化していくもの。古かろうが新しかろうが良いものは良いし、悪いものは悪いんだよ。ってか、古ければいいなら殷も周も滅びてないし」と一刀両断。有無を言わさぬ強気な姿勢で改革に着手しました。

氏族制度の解体

商鞅は大規模な国家改革として、次のことを行います。

  • 五人組、十人組の監視制度。
  • 一家に二人以上の男子がいる場合の分家の義務化。しなければ税金が二倍。
  • 軍功に応じての爵位の授与。
  • 公族でも軍功のない者は審査の後爵位剥奪。
  • 爵位の高低にはっきり格差をつける

これらを行うことで犯罪の抑止、実力主義の富国強兵策を推し進めていく一方で、孝公以外の公族の権力を奪い、氏族制度の解体、組織の官僚化を進めていきます。

古代中国において最も権力の座を脅かす者は太子以外の血縁者でした。彼らの反乱は国を二分し大きく疲弊させます。商鞅は反発を受けるリスクを覚悟の上で氏族制度の改革に取り組んだのです。

信賞必罰

こうした法を布告する前に、商鞅は一計を案じました。厳しい法律に人民がはたしてついてくるか、不安が残っていたからです。

事実、どれだけすぐれた法であっても守られなければ意味がありません。商鞅の案じた策は、このようなものです。

 

秦の都に三丈もある木を植えて、布告しました。「この木を北門に植え替えたものに十金を与える」と。しかし、誰も信じません。それはそうです。そんな馬鹿げた話に乗るはずもないでしょう。そこで、褒賞を五倍にしました。

そこでようやく一人の男が実行に移し、彼は実際に五十金を受け取ったのです。

 

こうして商鞅は「秦の法に嘘偽りがない」ことを示してから、新法の布告に踏み切りました。

しかし、そううまくはいきません。厳しい法律に不平不満が続出しました。挙句の果てには太子まで法を犯したのです。そこで商鞅は「人民が法を守らないのは、上の者がそれを守らないからだ」と考え、太子の教育役や侍従長の公子を代わりに処刑しました。太子は世継ぎなので殺せませんでした。本当は殺したかったでしょう。

そこでようやく人民は「法の裁きは徹底される」ことを恐れ、法律を守るようになりました。

そして十年。秦は新たな法秩序により個人的ないさかいを起こす者はなく、平和な毎日を人々が送るようになりました。ディストピアみがありますね。

そうなると新法を礼賛する者もあらわれます。最初の方は反対していた人です。商鞅は「そういうのが一番要らないから」と言わんばかりにこびへつらう者を左遷しました。

以降、法律に関して口を出す人はいなくなりました。

 

こうした法を絶対視し、法は王すらも縛るものだと考える商鞅の考えを「法治主義(現在の法の支配とは少し毛色が違います)」と言い、儒学徳治主義とは真っ向から対立する思想として秦の政治原理に据え置かれます。

その信念は信賞必罰、法の通り賞を与え、法の通り罰を下す。一切の忖度のない政治は、政治家の忖度が横行する現代社会も見習うべき点もあるかもしれません。

 

商君書研究

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 商鞅は商君と呼ばれました。

改革者の末路

孝公の死後、後ろ盾となる君主権力を商鞅は失ってしまいます。太子が即位して王を名乗ると、散々商鞅に打撃を与えられた公族が密告しました。「商鞅は謀反を企んでいる」と。

もちろん事実無根です。秦で栄華を極めた彼に謀反の動機はありません。しかし王はそれを信じ、商鞅はそれを察知して逃げ出します。

そして関所の宿場町に泊まろうとすると、宿の主は申し訳なさそうに言いました。

許可のない者を泊めると、宰相の商鞅様に罰を受けますから――

商鞅はそれを聞いて絶望します。法の報いを、自らが受ける時が来たのです。

「ああ、法の裁きがとうとう自身にまで及ぶことになるのか!」

その後商鞅は地の果てまで追いかけられ、その一族は族滅の憂いにあいます。完全な冤罪ですね。

 しかし改革者は死んでも、その功績はやはり偉大でした。秦は七国の中でも抜きんでた強勢を誇り、他の諸国を徐々に追い詰めていきました。

おわりに

こうして改革者自体は悲惨な末路をたどりますが、秦は成長しました。商鞅自体は特定の思想を支持して政策を始めたわけではありません(孝公の望む方針に沿った政治をした)が、彼の政策は「法家」の思想を体現したものとして後世に引き継がれていきます。

こうした政治思想について、次回は取り上げていきたいと思います。

 

秦漢帝国 (講談社学術文庫)

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乱世から大帝国へ 春秋戦国―秦・漢 (中国人物伝 第I巻)
 
処刑の文化史

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あらきと学ぶ楚漢戦争 ~「事前知識としての戦国時代」~ 戦国の七雄 魏

戦国時代の開始と、国が乱れる影響

前回、「春秋時代」も終わりを迎え、中華世界は空前の大分裂時代、諸侯がそれぞれ「王」を名乗り天下を手中におさめようとする「戦国時代」に突入しました。諸侯は争いや謀略を張り巡らせ、興亡を繰り返していきます。

 春秋・戦国時代は戦いの時代。言ってしまえば「強い奴が勝つ」「騙されるほうが悪い」時代です。人心は大いに乱れていきます。つまり、「中国を支配する一元的な思想」が失われてしまう時代です。民草は王がいない社会(=無秩序な社会)を生きるわけですし、戦乱で土地は荒れて生きる術も失われていきます。

そんな社会に統一的な価値をもたらすことができるのは思想です。いわゆる「政治理念」や「秩序体系の確立」を目指す考えですね。

中華の思想をまとめようと当時の思想家たちは考え、各地で思想を説いていきます。この一連の思想群とでも呼ぶべきものを「諸氏百家」と呼びます。これらの思想についての解説はかなり後になります。説明する思想は二つだけですが。かんべん!

 

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あらきと学ぶ楚漢戦争 ~「事前知識としての春秋時代」~

ここに来たということは、歴史が好きだということでしょう。そうでないなら、これから好きになってくれると嬉しいなぁという次第です。

じつはあらき、にわか歴史大好きマンで、歴史の本は結構買ってます。楽しい。でも、やはり皆さんが好きなのは「西洋史」。 

超約 ヨーロッパの歴史

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 騎士とか貴族封建制度とかローマとかキリスト教とか百年戦争とか。男の子ってこういうのが好きなんでしょ……?

 

 実際、「大航海時代」から西洋史が占める世界史の割合はめちゃくちゃ増えて、「世界史=西洋史」みたいなところがあります。近代国家や資本主義、民主主義から世界大戦まで、全て「ヨーロッパ諸国が作り上げた構造」や、それを基軸にした出来事です。民族主義ナショナリズム)も、ヨーロッパの考え方が根強い。

「民族」で読み解く世界史

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 ――しかし。しかしです。欧州の構造が近代を作り上げていった一方で、世界史においてずっと重要だったのは「東アジア=中国」です。なぜか。

それはもちろん、「世界最大の帝国」だったからです。力こそパワー。でかいなら影響力もでかい。

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あらきと学ぶ近代民主国家における基本法

 

どうも、あらきです。なんかこのはじまり方ブログって感じでムカつくな。ブログってそもそもが意識高くてなんか苦手なんよね。まあええわ。スキルアップ! やっぱこの言葉嫌い。スキルなんかソシャゲの能力か怪しい啓蒙セミナーでしか聞かんよな。あとラッパーもスキルとか言いがち。結構みんな言うてるやんわろた。

それはそれとして、ちゃんとお勉強になることを適当にやっていこうな。今日は法学、もとい法理念の話。今の国家の仕組みは近代国家(主権がどうこうとか、多分中学でやってるやろ。アレ)。で、特に民主主義、日本やアメリカ、イギリスなんかが民主主義ですけど、その民主主義を採用した近代国家の基本法について考えていきましょう。

タイトルのまんま。御託はここまで。ここからも御託。

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あらき、ブログを始めるのまき

なぜブログを始めたか

はい。金のためです。バイトもやめましたし。金が要りようです。

本とかにお金を使いたいので、金をためたいです。頑張る!

というのはまあ冗談で、ツイッターで長ったらしいバカみたいな長文ツイートでうだうだ語るよりはブログで理路整然とした文章を書くほうがスキルアップになるよなあって考えたからです。

スキルアップってなんだよ。いきってんな。文章の中で横文字使うやつと小っちゃいカタカナ使うやつは信用してはいけません。ツイートのことツィートとかいうやつ。偏見です。

 

自己紹介ってあるやん?

あらきはツイッタラーではなくて、もともとなろう作家です。高二のころから書いている大学生で、実はブックマーク百件以上の「鳴かず飛ばず」の作家もどきです。まあ今のところあまり面白い作品はかけていません。頑張ります。

趣味は映画を適当なものをぴっぴっと見たり、本を読んだりです。しがない学生ですが、新書を読むことも結構多い。多分。専門は哲学。哲学をやるやつにろくなやつはいないが、哲学をしない人間はろくある人間になれません。良い人間になるために頑張ろうな。

 

このブログについて

ええと、基本読んだ本の備忘録として使っていく予定です。広告収入はほんのついでです。漫画小説新書。どんなジャンルでも、なんならなろうのウェブ小説でも。

収入に関してはマジでついでの予定なので、まあ。あらきのことをがめついやつだって思わないでほしい。

自分の考えてることを出力するのが楽しい! っていうのもブログを始めた背景にありますし、読書とそれに関する思索が主になるかなぁってのが基本です。

あ、今zoom授業やってるの忘れてて鼻くそほじった。

 

おわり。