あらきと学ぶ楚漢戦争 ~「事前知識としての戦国時代」~ 戦国の七雄 魏
戦国時代の開始と、国が乱れる影響
前回、「春秋時代」も終わりを迎え、中華世界は空前の大分裂時代、諸侯がそれぞれ「王」を名乗り天下を手中におさめようとする「戦国時代」に突入しました。諸侯は争いや謀略を張り巡らせ、興亡を繰り返していきます。
春秋・戦国時代は戦いの時代。言ってしまえば「強い奴が勝つ」「騙されるほうが悪い」時代です。人心は大いに乱れていきます。つまり、「中国を支配する一元的な思想」が失われてしまう時代です。民草は王がいない社会(=無秩序な社会)を生きるわけですし、戦乱で土地は荒れて生きる術も失われていきます。
そんな社会に統一的な価値をもたらすことができるのは思想です。いわゆる「政治理念」や「秩序体系の確立」を目指す考えですね。
中華の思想をまとめようと当時の思想家たちは考え、各地で思想を説いていきます。この一連の思想群とでも呼ぶべきものを「諸氏百家」と呼びます。これらの思想についての解説はかなり後になります。説明する思想は二つだけですが。かんべん!
戦国の「七雄」
さて、戦国もある程度進行していけば「強い国」というのは少ない数へと収束していきます。中でも強大な七つの国(秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓)を「戦国の七雄」と呼びます。
では、重要な国についてすこしだけ、かいつまんで説明していきましょうか。
下の地図をご覧ください。
↑中華まるごと百科辞典様へのリンクはこちら
上を見ると、戦国の七雄以外にもしっかり国が残っていますね。まあ、どうせ滅びますし、それぞれのことをやっていくと時間がかかりすぎるのでスルーします。
台頭する「魏」
魏という国が周のすぐ近くにありますね。周、生きとったんかワレ!(どうせ滅び以下略)
この魏という国は、他国の中でも戦国初期に台頭していく国の一つです。その理由は何と言っても「中央集権化」を始めたことでしょう。正しく言うと、「君主権力を高める」ことを始めたのです。
古代における君主の悩みはやはり、「力が足りない」ことです。地元の豪族なんかの発言を無視したりすると寝首をかかれますし、古いしきたりや慣習を無視すれば人々の心は離れていきます。
しかし、戦争をするには中央が強くなければなりません。そこで魏は「改革」に乗り出し始めたのです。
魏の改革――西門豹の場合
西門豹は魏の君主である文侯(まだ戦国初期なので王ではありません。そもそも時代がいきなりぱっと変わることはないんですね。平成と令和、別に変ってないし)に命じられて鄴の県令になりました。しかし、人々は貧しく生活苦に陥っていました。西門豹が理由を尋ねると、恐ろしい風習が明らかになりました。
そこでは、「河の神様」の嫁取りという風習がありました。トイレの神様のでかい版みたいな感じでしょう。どちゃくそ可愛いんでしょうね。土着信仰だけに。ごめんなさい。
話を聞くと、県の三老(役人で、地方の教化を指導した。長老てきな)と巫女(ババア)は、嫁取りの際に多大な税金を集め、祭祀に使わずに横領をしているという説明がなされます。許せん。メロスじゃなくても激怒しますね。
さて、河の神様が女、嫁を取るということは完全に百合なんですよね! やったぜ! 大勝利です! そりゃ祭祀も大きくしっかりとやらないといけませんね!!!!!
おすすめの百合漫画です。二巻がまだ買えてないので期待大です。
さて、冗談はさておいて。古い習慣を利用してネコババを決める巫女と三老に西門豹は誅罰を与え、財政の健全化を開始します。
まず、嫁入り(川に投げ入れるだけですが)の日に、西門豹は文句をつけます。
「なんやこのブス! 神様がぶちぎれるで!!!!!」
そして、巫女に対してこう言います。
「ワイが代わりを見つけるまで時間がかかる。だからな、お前が川に潜ってそのことを伝えてこい」
巫女と、その弟子を川へと放り投げていきました。しかし、一向に上がってきません。この川……深い!
そこで、三老も放り込んで、その他私腹を肥やした役人をちらっと見ました。皆、自分の運命を悟ったようで頭を擦り付けて懇願しました。命乞いです。
それ以降河の神様の嫁取りなど、誰も言いませんでした。
そこでようやく西門豹は本来の「やりたかったこと」に取り掛かります。それは、「鄴の灌漑用水路の整備」です。要はインフラの整備ですね。人々を徴発して作業に取り掛かりましたが、嫌がる人々を尻目に西門豹はこう言ったのでした。
「民は灌漑用水ができればその恩恵を受けることになるのだから、嫌がることなど無視していればいいのだ。その子孫が百年、二百年とその利益を受ければよいのだ」
典型的なパターナリズムですが、この用水路は当時非常に役立ちました。改革者は「人々の為になる」ことをするのであって、「人々の望むこと」をするのではないということが分かりますね。まあ、強引に物事を進める人が常に優秀なら苦労はしないんですけど。
魏の改革~呉起の場合~
呉起は、現在でも有名な人物で、兵法の達人として有名です。実は当時から「悪い意味で」有名な人物でした。母の死に目に帰らない親不孝で師匠から破門されたり、斉と当時いた魯の戦争で魯の将軍となった時は妻が斉出身であることから内通を疑われ、潔白を示すために妻を殺したのです。
今見ても「やべぇやつ」ですよね。彼の評判はおおむね「立身出世の為なら身内を殺してでも成り上がろうとする強欲な男」でした。まちがってませんね。
しかし文侯は彼を取り立てました。なぜなら、単純に「めちゃくちゃ強い」からです。しかも、彼は立身出世に目がない強欲でありながら、戦場では兵士から慕われる男でした。それを代表するエピソードがあります。
呉起はふつうの兵士と同じところで寝て、同じところで食べて苦楽を分かち合いました。そして、ある兵士ができものに苦しんでいた時は自らの口で膿を吸い出し(古代中国にありがちな感動エピソードの典型です。ぶっちゃけ汚いですよね)た。それを聞いて兵士の母親は泣き崩れました。伝えた兵士が疑問に思うと、母親は「私の夫も将軍(呉起のことです。某指導者ではありません)自ら膿を吸い出され、その恩義に報いようとして死んだのです。きっと息子も報いようとするのでしょう」と言った。
いい人――なのか? まあ、当時はこういうのが人気だったんです。実際、将軍だからっていいもの食べてってしてる人よりは「信頼感」はあります。野心はあっても公平無私な点がかえって「男ならこうなりたい!」という信頼感を勝ち取ったのかもしれませんね。
その後も呉起は魏で将軍として軍備の充実を推し進めますが、政敵の謀略により国を追われることとなり、次に仕えた楚では宰相として改革を進める中、反乱により悲劇の死を遂げます。自らを取り立てた王の死体に覆いかぶさり、反乱軍から矢を受けて死んでしまいます。やはり自分を取り立ててくれた恩義を感じていたのでしょうか。
その後、魏の改革は襲い掛かる外患により頓挫、中途半端に終わってしまいました。
共通すること
ここで重要なのは、文侯が中央集権を進めていく中で「官僚」として西門豹、呉起といった人物を取り立てたことです。豪族との柵や血縁、そういったものから離れた「ただ単に優秀」な人間をそろえた存在としての官僚。己の才覚を頼みに各国に俸禄を求めて移動する「人材」。
こういった存在が、戦国時代を理解するうえで最も重要なファクターでしょう。次の記事では、秦の改革についてです。
あれ、結構長くなるな……?